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「選ばれしモノ」
渡耒宏明
僕はさえない予備校生だった。
御茶ノ水にある、わりと名の知れた予備校に僕は毎日通っていた。毎日だ。
僕は別に勉強が好きだからとか、友達と会うためにだとか、そういった類の理由で通っていたわけではなかった。
ただ単に他にこれといってすることがないから、という理由で僕は予備校に通っていたのである。
その証拠に僕の成績は素晴しく良くもなく、かといって悪すぎることもなかった
(例えば、今ここにその当時の私立大学向け模擬試験の成績表があるのだけれど、
そこに出ている僕の順位は三千三百四十一人中の六百七十四番である。
この数字が物語るものは、同じ御茶ノ水にある某有名大学への合格可能性が六十パーセントであることを示す。
これは決して良い成績というものではない)。
また僕の周りには「友達」と呼べそうな人が誰一人としていなかった。
というのも、僕は予備校にいる時は誰とも喋らなかったからだ。
彼らの言語と僕の言語とはまったく異なっているように僕には思えたし、まるで宇宙人と話しているように感じたことさえある。
彼らときたら、「次の授業なんだったか君わかる?」とか「君どこから通っているの?」などということしか言わないのだ。
一ヵ月ほど経った後には、皆それぞれ似た者同士のグループを形作り、僕に話しかけるものは殆んどいなくなった。
それでもたまに、「シャープ・ペンの芯をわけてくれない?」などということを訊ねられることがまだあった。
僕はそんな些細なことにも関わりたくはないと思っていたので、
休み時間中はウォークマンのヘッドフォンで耳を塞ぎ、うつ伏せになって、うるさい外界から自分の身を守ることにした。
まるで亀が自分の甲羅の中に入り込むように。
僕はいつも一人で行動していた。
昼休みになると決まって、御茶ノ水駅の近くにあるカレー屋・ボンディに行った。
五百円で食券を買い、隅の席に座る。いつも僕はビーフ・カレーをたのんだ。
ごく普通のカレー・ルーの中に、宇宙食のような肉の塊が入っているものだ。
僕はそれを水と一緒に飲み込む。食事をすることは僕にとって義務以外のなにものでもなかった。
できることなら食事なんてしたくないと僕は思っていた。
それに、他人の食べている姿を見ることと、自分の食べている姿を人に見られることに対して
僕は嫌悪感を抱いていたから、 事を済ますとすぐに店を立ち去るのが常だった。
カレー屋・ボンディから予備校に戻ると、僕はまたウォークマンのイヤホンを耳に入れ、
机の上にうつ伏せになった。こうして僕は時が過ぎ去ることだけを待っていた。
──頼むから静かにしてくれないかな……。
けれども一人だけ僕の静かな世界に土足で入り込もうとする人がいた。
彼は──というより、そのおっさんは──どうしてだかはわからないが、いつも僕に話しかけてくるのだった。
肌の色は白く小太りで、アメリカの炭鉱労働者が着るようなチェックのワーキングシャツ
(とにかく丈夫さが取り柄のあれだ)を着込み、ケミカル・ウォッシュのジーンズを履いていた。
そのジーンズはもともとブーツ・カットで裾が広がっているものなのだけれど、
悲しいかな彼の脚の長さはそのジーンズをストレートのものにしてしまっていた。
髪の毛は(なんだか知らないけれど)濡れていて、頭にぺたーっと張り付いていた。
そして彼の歯だけはそんな服装のいい加減さとは反対に、異様なまでに白く、ヒーローが笑う時のように光ってさえいた。
きっと歯茎から血が出てしまうくらいに強く磨いているんじゃないかと僕は想像した。
その歯の間から漏れてくる声は、アニメーションのキャラクターのように甲高く、耳に付くものだった。
僕は彼の話を聞く気は毛頭なかったし、もちろん耳はウォークマンでガードしていた。
でもあの「アニメ声」だけは、ヘッドフォンから聞こえる爆音のロックの上からでも強烈に響くのだった。
おっさんがその甲高い声で言うことによれば、自分の年齢は本当のところ三十三歳で、
予備校の入学者カードには二十四歳と記入したそうだ。
そのカードの備考欄「なんでも気軽に書いてください」には、
「僕は医学部を受験しようと思って今まで勉強してきたので、年は人よりも取っていますが、よろしく頼みます、云々」
と書いて自分の年齢が二十四歳であることに信憑性を持たせようとしたそうだ。
でもはっきり言うけれど、そこに貼ってある写真は誰がどう見てもただのおっさんにしか見えない代物だった(
その写真は学生証に貼るものと同じであることが義務づけられていて、僕は彼に学生証を見せてもらったのである)。
予備校の周りの人達は、よく冗談半分で「お前これじゃおやじ顔だよ」
なんて失敗したプリクラを見て喜んでいたりするのだけれど、
彼の写真は冗談にならずに周りの人達を白けさせちゃうくらいおやじ顔だった。
それもそのはずだ。彼は正真正銘のおやじなのだから。
とまあ、彼はこんな話を延々と僕に向かって話していた。
僕は彼が話している間、次のようなことを考えていた。──どうしてこのおっさんの声だけは正確に聞き取れるのだろう?
僕は彼の話をただ聞き流しているだけなのに。──どうしてこのおっさんは僕に近寄ってくるのだろう?
僕は別に彼の事を相手にしているわけではないのに。
ありとあらゆるところで彼は僕に声をかけるのだった。
予備校の授業を受ける時は必ず僕の隣の席に座ったし、トイレに行けば隣の便器で用をたした。
なかでも満員電車の中で人をかきわけ僕のところにやってきたのは最悪だった。
なにしろ僕の体にぴったりとくっついて耳元で囁くのだ。
──おまえ今日暇なのか暇なら家に来いよ面白いものがたくさんあるんだよおめえ。
六月にしてはよく晴れたある日のこと、予備校が終わると僕はいつものようにレコード屋に行き、中古CDをあさった。
その当時の僕はつまらない奴と話すよりも、良い音を聴いていた方が自分のためになると考えていた。
なかでも昔の六十年代から七十年代のロックがお気に入りで
(なぜなら、現在の音楽を演奏している人も、それを聴いている人も馬鹿にしか思えなかったからである)、
当時の音楽を専門に扱っているレコード屋へ行くのが僕の日課だった。
そこは大きな書店の向かいにあった。
靖国通りから小道をちょっと入ったところにあるビルの二階がそのレコード屋だった。
その日僕はお目当てのジミ・ヘンドリクスのCDを探していたのだが、ふと今までに見たこともない代物に出会った。
それはジミがフライング・ブイを構えながらニヤッと笑っているジャケットだった。
買おうか買わないか迷っていると、うしろから手が伸びてきてそのCDを奪い取った。
振り向くとそこにいたのは、あのおっさんだった。
「うーん──これね。これはヘンドリクスの六十九年のスタジオ・アウト・テイクだね
ここでの『エンジェル』のアコースティックバージョンはマジ涙もんしかも曲間にジミが詩の書いてあるノートをめくる音まで
聞こえるんだこれがまた味があるんだよね天才が人間に戻る瞬間というかまあマストには違いないね! マスト!」
と彼はとても早口で言ってのけた。僕は何がなんだか分からなかったけれど、とにかくそのCDを買うことにした。
「君ジミ・ヘンに興味あるのなかなか見る眼あるね」
「はあ」
レコード屋を出ると僕とおっさんは御茶ノ水駅の方に向かって歩いた。
僕は彼と別れて一人になりたかったのだけれど、おっさんは勝手に僕のうしろについてきた。
その間ずっと、彼はジミ・ヘンドリクスについての蘊蓄を語るのだった。
おかげで一つ目の信号を渡る時には、ジミ・ヘンドリクスのディスコ・グラフィーがすべて僕の頭に叩き込まれていたし、
三つ目の信号を渡る時までには、ジミの父親の再婚相手が日本人であるということまでも叩き込まれていた。
「そろそろ飯にでもするか」とおっさんが言って立ち止まったのは、僕がいつも行くカレー屋・ボンディの前だった。
「いや、ちょっと用があるので……」と言って僕は遠回しに断わろうとした。
僕はそこに入りたくはなかった。だいいち、勝手についてきておいて僕の予定を決められるのは不愉快だった。
それに誰かの食べている姿を見るのは嫌だったし、僕の食べる姿を他人に見られるのはもっと嫌だった。
しかもそれがこのおっさんなのだ。この薄気味悪いおっさんの食べる姿を想像すると、僕はそれだけで気分が悪くなった。
にんじんやじゃがいもや肉が、あの白い歯に噛み砕かれるのだ。
そしてそんなおっさんに僕の食べる姿を見られるのだ。僕は耐えられそうもない。
僕が店の入り口で躊躇していると、おっさんは僕の腕をつかんで無理やり店の中に入れた。
おっさんはカツ・カレーを頼み、僕はあきらめてコーラを頼んだ。
それから彼は再びジミ・ヘンドリクスの話に戻っていった。
「ところで君『ワイト島のジミ・ヘンドリクス』は持ってる?」
「はあ。最近CDで買いましたけど」
「それじゃ駄目だよおめえ今出てるCDは収録してる曲もミックスも違うんだよ例えば前のヤツには『ラヴァー・マン』という曲が
入っているんだがこれはジミがB.B.キングの『ロック・ミー・ベイビー』をパクったヤツでそこら辺にもジミのバック・ボーンが
感じられて興味深い一曲なんだよそれが入っていないヤツなんて駄目駄目しかもミックスにも難があるんだよね今ジミの曲の
管理をしている『アー・ユー・エクスペリエンスト・コーポレーション』という会社の重役であるアラン・ダグラスっていうヤツが
リミックスだといってエコーだとかむやみにかけたりしまいには演奏まで差し替えたりするんだぜそういう事だからさ取り敢えず
今売っているCDは全部音が悪いわけなんだ音質がクソなんだよ
どう? 俺の家で聴いてみる?」
「いや、今日はいいです。本当に用があるので」と僕は言ってコーラを飲んだ。
それにしても「おめえ」はないよな、と僕は思った。
おっさんはカレーをひと匙口に運び、水をゴクっと飲んだ。コップには唇のあとが付いた。
「ところでおめえ予備校に友達はいるのか?」
「いないですよ」と僕は答えた。友達なんていなくたって予備校に通うことはできるだろう?
「それじゃなんで予備校に通ってんの?」
「うーん。やっぱり大学とか行きたいじゃないですか」
「大学行って何するわけ?」
「別に何っていうわけでもないですけど……」と僕が言うと、おっさんはゆっくりと口元をぬぐってから言った。
「おまえバカか?」
その声は店中に響き渡る大きな声だったのでみんながこっちの方を向いた。僕は逃げ出したかった。
「そんなんだったら大学なんか行くな予備校にも来るな」とおっさんは僕の目を睨んで言った。
「じゃあ──じゃあですよ。おじさんは何で予備校に来るんですか?
年齢だってもう三十も越えているのに。僕にはそんなこと恥ずかしくってできやしませんよ」
と僕はおっさんの視線を避けながら言い返した。
「おまえは本当にバカだなそんなことも分からないのかそんなの〈楽しむため〉に決まっているじゃないか予備校にはいろんな人間が
集まってくるだろそれを観察していろいろ想像するんだ面白いよ傑作だよ」とおっさんはカレーを頬張りながら言った。
僕は、その頬張る光景とおっさんが言っていることに嫌悪感をおぼえた。
〈楽しむため〉だって? いろんな人間を観察するんだって? 冗談じゃない。
カレー屋を出ると、僕はおっさんと別れて総武線に乗った。
でも僕は水道橋駅で降りると、店で飲んだコーラを線路に吐き出してしまった。
黒いコーラは胃の中から出て行き、石の上に叩きつけられた。
家に帰る途中、僕はうなだれた気分で近くのコンビニエンス・ストアに入った。
店内は真夜中にスポット・ライトを浴びせかけられたように眩しかった。
若いカップルが──格好良くもないけれど長髪にしている男と、その男にぴったりと体を寄せている、
「かわいい」という形容詞からは程遠い女が──「牛乳プリン」を買うか、
「コーヒー牛乳プリン」を買うかどうか迷っていた。
店のスピーカーから流れている音楽は流行のもので、耳障りなそれは僕の気分をいっそう腐らせた。
カップ・ラーメンとスナック菓子と暇つぶしようの雑誌を適当に選ぶと、僕は足早にそこを去った。
僕は部屋に帰ってきた。今日も奇蹟の生還を果たしたという感じだ。
僕はすぐにおっさんに勧められて買ったジミ・ヘンドリクスのCDをプレイヤーにセットすると、できるだけボリュームを上げた。
隣の部屋のシャワーの音といった、他の人の生活音を消して完全にひとりの状態にしたかったからだ。
ジミ・ヘンドリクスが歌うのを聴きながら、僕はスナック菓子を食べ、カップ・ラーメンをすすった。
Angel came down from heaven yesterday
これが『エンジェル』のアウト・テイクなんだな、と僕は思った。
残念ながら僕の耳には、おっさんが言っていたような「ジミが詩の書いてあるノートをめくる音」までは聴き取ることができなかった。
けれども僕は十二弦アコースティック・ギターの美しい響きに心を奪われた。おかげで僕の気分は少しだけ良くなった。
それから僕は雑誌のページをめくった。そこには『ひとり暮らしの女子大生/GET大作戦!』と題された記事があった。
顔写真とプロフィール、趣味なんかが載っていた。
『ひとり暮らしの女子大生/GET大作戦!』
コギャルは飽きたという君には今年ひとり暮らしを始めたばかりのお嬢様達がピッタリ
さあ、早くさびしがり屋の彼女たちのハートをGETしよう! レターは編集部まで
彼女たちから返事が届くかもしれないゾ
*後藤怜子 ごとうれいこ
神奈川県 S大1年
1974年2月10日生まれ
水瓶座 O型 158cm 44kg
B84 W60 H82
コメント☆大好物はクリームあんみつ。好きな街は自由が丘(東京)。男性のタイプは動物好きな人。顔や姿にはこだわりません。
*佐竹奈保美 さたけなほみ
埼玉県 N女子大2年
1973年5月3日生まれ
牡牛座 A型 163cm 45kg
スリーサイズはカンベンして下さい。
コメント☆着物の着付けができるのよ。好きな食べ物も和菓子だし。私って以外と大和撫子なんだから。
*本掛美佐子 ほんけみさこ
東京都 H大1年
1974年 8月1日生まれ
獅子座 AB型 16cm 50kg
B88 W60 H85
コメント☆読書が趣味な私。友だちからはクライ子って言われちゃってます(笑)。アービング好きな人とデートがしたいな。
三人目の「本掛美佐子」のところで僕の目は止まった。
その女の子が他の女の子に比べて特別可愛かったからというわけではない。
他の女の子だってそれなりに可愛くはあった。でも「本掛美佐子」その人だけは僕の中にある何かを刺激したのだった。
「本掛」という珍しい苗字は以前、僕がどこかで聞いたことのあるものだった。
本掛? ほんけ? ホンケ?─そうだ。「本掛美佐」だったら僕は知っている。
高校二年生の時、気になっていたことがある女の子だ。
でも「本掛美佐」なら誕生日が一月八日のはずだし、だいいち彼女はひとえ瞼だったはずだ。
それに対してここに写っている「本掛美佐子」はふたえ瞼で、目はパッチリとしている。
じゃあ、もしかしたら、と僕は思う──この「本掛美佐子」は、ふたえ瞼に整形した「本掛美佐」の現在の姿なのではないか?
──僕が聞いた話では、雑誌で名前や生年月日を操作するのはよくあることなのだそうだ。
というのも、そこに載っている彼女たちは大抵、親に内緒でこういったモデルのような仕事をしているからだ。
「本掛美佐」はモデルの仕事をしているのか……。僕はもう一度彼女のコメントを読み返してみた。
趣味は読書だって! 面白いな。僕が貸した『地下室の手記』には紅茶のしみをつけて返したくせに。
おまけにその時に「ごめん。なんか、忙しくって読めなかった」って言ったくせに。
──僕は知っているんだ。最初から読む気なんてなかったんだろ? まったく冗談じゃない!
僕は雑誌を放り投げた。食べかけのスナック菓子もそのままごみ箱の中へ捨てた。
オーディオ・セットのボリュームを足の指でさらに大きくして、ジミ・ヘンドリクスのギターに身を委ねた。
Fly on my sweet angel
Tomorrow I'm gonna be by your side
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