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「選ばれしモノ」

渡耒宏明

 気象庁が梅雨入り宣言を出した日のこと、外では雨が降っていた。
 僕は憂鬱な気分で予備校に行った。教室に入るといつものように周りはざわついていた。有象無象の会話が続く。
「この前の『私大模試』どうだった?」
「昨日、俺下痢でよー」
「新装開店行った?」
「昨日の『東京ナニワ倶楽部』面白かったね」
「『コネチカットのひょこひょこおじさん』がいちばん面白いって」
「なんだかんだ言って、スマップってやっぱりかっこいい!」
「地球丸花子のラスト・ビデオ見た?」
「やっぱ、すべての言葉はさよならだよね」
「麻薬打って俳句作ってるんだから笑うって」
「YMOの再結成コンサート行く?」
「ラケットで永遠にボールをずーっと打って、最後は自転車に乗るんだよ」
「行った。五千円負けた」
「明日 CLUB でジョージ・フェイムの『ポイント・オブ・ノー・リターン』を使おうと思ってるんだけど」
「オグちゃんの髪の毛ってどぅなってるの?」
「下落合トメって絶対スタッフの名前だよ」
「俺、ガイナックスに入社しようかな」
「『ともだちいっぱい』のソラミって治子にクリソツ」

 ──などなど、それらは朝から僕を最悪な気分にさせてくれた。
 もしも僕がここじゃなくって今駅にいたとしたら、線路に降り立って電車と力比べしただろうし、
 橋の上なら川の中へ、ビルの上なら交差点の横断歩道目指し、飛び降りていただろう。
 そんな会話の中に、僕に向かって声をかける人がいた。
 僕はうかつにもウォークマンをしていなかったので、それに答えざるをえなかった。
「よお、おまえこの予備校だったんだ。知らなかったよ」と彼は言った。僕は三秒間考えてから、ああ、と言った。
「(1・2・3)ああ」
 彼は高校時代の知人で同じクラスにいた人物だった。
 どのクラスにも一人くらいはよくいる、しゃべり好きで人畜無害な──いちばん迷惑なタイプの奴だ。
 僕はそんな奴らのことを「ぬるま湯君(ちゃん)」と呼んでいた。
「おまえ、模試の偏差値どうだった? 俺五十八・六でさあ。このままじゃ法政も難しいかもなあ。
 へえ六十一・八? おまえ趣味もなさそうだし、勉強に身が入りそうだもんなあ。
 もう大学どこにするのか決めた? おまえのことだからいいところ狙っているんだろ?」
「ははは。そんなことないよ」と僕は力なく言った。
 でも、ちょっと待ってくれ。「おまえのことだから」って言うけれど、いったい君は僕についての何が分かっているというのだ?
 もちろん、こんなことを言う「ぬるま湯達」に悪気は一切ないのだということは僕にもわかっている。
 でもひとつ言っておくけれど、悪気がないっていうのが一番の罪なのだ。
 その後も彼は延々と話しつづけていたのだけれど、僕は彼の話をまともには聞いていなかった。
 その代わりに彼の言った言葉で遊んでいた。

「次の授業なんだっけ?」
     ↓
「指の腫瘍噛んだっけ?」

 例えばこんなふうに、韻だけを踏んだ出鱈目な文章に換えて(は・は・は)。
「じゃあ、俺、一限があるから」と彼は言うと去っていった。
 まったく、こういうのはすごく困る。昔の知人に会うっていうのは、昔の自分に会うっていうことだ。
 今の自分で精一杯なのに、昔の自分のことまで面倒見切れるはずはないじゃないか。
 僕は朝からとても嫌な気分になった──いつにも増して。
 もう予備校の授業を受ける気はすっかりなくなったので、僕は取り敢えず教室を出ることにした。
 今度はきちんとウォークマンをして耳をふさぎ、人の姿が視界に入らないようにうつむきながら歩いた。
 流れているのはこの前買ったジミ・ヘンドリクスのCDだった。
 しばらく行くと僕の前に立ちはだかる人がいた。顔を上げると、そこにいたのは、あのおっさんだった。
 僕は吐き出したコーラのことを思い出した。
「おうおめえか今日は人が少なくてあまり面白くないな人間観察もままならないぜこれから喫茶店に行くけどおめえも来るか?
 ここから近いんだ」とおっさんは言った。
 僕の中でコーラは流れて行く。僕は首を縦に振った。僕はおっさんのうしろに黙ってついて行った。もう、どうだっていいのだ。

 予備校の近くにある喫茶店に着くと、ウェイトレスに向かっておっさんはコーヒーを二つ頼んだ。
 最初僕は僕の分まで彼が頼んでくれたものだとばかり思っていたのだけれど、それは間違いだった。
「おめえも何か頼め」と彼は言った。
「え? ああ……はい。じゃあ、僕もコーヒーをひとつください」
 店の中には参考書を片手に勉強している予備校生や、ひと息入れている外回りのサラリーマン、
 仲むつまじそうなカップルなどの姿があった。
 天井に掛けてあるボーズのスピーカーからはイージー・リスニングの有線放送が流れている。
 僕たちのテーブルにはコーヒーが三つ並んだ。おっさんはそのひとつを手に取ると匂いを嗅ぎ出した。
 それからもうひとつの方を一口含むと、ワイン通の人がそうするように舌の上で転がした。
 僕にはその仕草は口をゆすいでいるようにしか見えなかった。
「あのう……それは何しているんですか?」と僕はおっさんに訊いた。
 彼は口の中のコーヒーを、水の入ったコップに吐き出すとこう答えた。
「見ればわかるだろ口をゆすいでいるんだよ(ああ、やっぱり、と僕は思った)
「俺は喫茶店に来るとコーヒーを二つ頼むんだひとつは『香りを楽しむ用』もうひとつは『口ゆすぎ用』にするんだ」
「じゃあ、飲まないんですか? そのコーヒー?」と僕は少々呆れて言った。
「ああ俺はコーヒーが飲めないからな」
「コーヒーが飲めないなら、頼まなければいいじゃないですか」と僕が言うと、おっさんはゆっくりと口元をぬぐってから言った。
「俺はコーヒーが飲めないけどコーヒーのことは好きなんだ!」
 その声は店中に響き渡る大きな声でみんながこっちの方を向いた。僕は逃げ出したかったけれどそうすることはできなかった。
 彼の顔は真っ赤になって、おしぼりを握り締めた手はわなわなと震えていた。
 しいんと静まり返った喫茶店の中で、僕はおっさんの言うことも、まあ間違いではないな、と思った。
 僕だってエレキ・ギターを弾くことはできないけれど、部屋にはギターが一本置いてあるし、
 何よりもジミ・ヘンドリクスの音楽は好きだ。
 たぶん、これと同じことなのだろう。僕はおっさんの中にある種の可愛らしさを感じて、思わず微笑んでしまった。
 おっさんは気を取り直して次のように言った。
「ところでおめえあそこでココアを飲みながら英語の参考書を開いているヤツを見てみろよ九時五十七分になったらあいつはここを
 出て行くぜあいつは家が近いもんだから一旦家に帰ってドラマの再放送を必ず見るんだ月曜日から金曜日まではな」
「へえ。──あの人の友だちなんですか?」
 おっさんは首を横に振った。「いいや友だちでもなんでもないただ知ってるんだ」
「『ただ知ってるって』どういうことなんですか?」と僕が言うと、おっさんはニヤニヤ笑い出した。
 店の中では甘いクラシック音楽が流れている。どこかで聴いたことのある音楽だった。
「この間言ったろ? 俺は予備校に〈楽しむため〉に来ていろんなヤツを観察しているのだって」
 おっさんは自分のマジソン・バッグの中からA4サイズの分厚いファイルを取り出した。
 その表紙には『ユダ帳』というラベルが貼ってあった。
「このファイルにはな予備校に通っている学生から職員までの全員のデータが収まっているんだ」
 彼はそのファイルを開いて僕に見せてくれた。
 そこには学生や職員の顔写真、名前、生年月日、身長、体重、住所、電話番号、趣味、癖といったものが事細かに小さな字で書かれていた。
 彼は何ページかパラパラとめくって、今僕たちのそばでココアを飲んでいる人のところを開けた。
 なるほどそのファイルによれば、彼の住所はここから近い場所にあったし、趣味はテレビ・ドラマを見ることと書いてあった。
 実のところ、僕はこれだけの情報をおっさんがどうやって集めたのかが不思議で仕方なかったのだけれど、
 驚いた様子を彼に見せずに、こう言ってのけた。
「でもこれだけじゃ、あの人が本当にテレビを見るために家に帰るのかどうかなんて、わからないじゃないですか?」
「おめえ俺のことを信用できないっていうんだな?──じゃあいっちょうヤツを追跡してみるか」
 彼の言う「追跡」という言葉に僕は好奇心を持った。
 どうしようか? おっさんに従って、あの人をつけてみようか? 僕は時計を見た。時刻は九時五十五分を指している。
 さっきおっさんは、九時五十七分になったらあの人がここを出ていくって言っていたけれど、
 もしおっさんの言うことが本当だったら、追跡してみよう──僕はそう思った。
 ココアの男は身支度を始めて、伝票をレジへ持っていった。喫茶店のドアを開けて彼が表に出たのはちょうど九時五十七分だった。
 僕は唾を飲み込んだ。唾は大きな固まりとなって僕の咽を通っていく。
「さあどうするんだ? 行くぞ」とおっさんは言った。
 僕はうなずくと席を立った。

 ココアの男と僕たちは十メートルくらい離れて歩いた。その男は急いでいるせいか早足で、僕はついていくのに大変だった。
 けれどもおっさんは、その小太りな体つきとは裏腹に、涼しい顔をして男の速さについていった。
「あいつは十時九分の総武線三鷹行きに乗るはずだだから早足じゃないとダメなんだ」
「その電車なら歩いても間に合うじゃないですか」
「おめえは何もわかっていないなあいつはあの楽器屋の横にある自動販売機で必ず煙草を買うんだよこのロス・タイムを含んだ上であいつは行動しているんだ」
 おっさんの言うとおり、ココアの男はそうした。
 男と僕たちが駅にたどり着いたのは十時七分だった。改札をくぐり、
 息を落ち着かせていると十時九分の電車がホームに入ってきた。
 僕たちは男に気付かれないようにひとつ隣のドアから車両に入った。
 午前中のためもあってか車内は空いていて、おっさんは満員電車の時のように僕の体にぴったりと寄り添うことがなかった。僕はほっとした。
 ココアの男は次の駅で降りた。僕たちもあとに続く。おっさんは降りる時にピョンと軽く飛んで降りた。
 男は楽器屋の横で買った煙草をふかしながら、御茶ノ水駅に向かうまでとは違って、ゆっくりと歩いていた。
 僕たちも男に気付かれないように(でも見失わないように)ゆっくりと歩いた。
 男のアパートは駅から歩いて五分ほどの場所にあった。アパートの前には肉屋があり、昼食前に買い物を済ませようとしている主婦の姿があった。
 僕たちは肉屋でコロッケを買いながら、男の様子をうかがう。男は階段を二段飛ばして駆け上がり、
 素早く自分の部屋(二階の一番すみにある部屋)に入った。
 僕たちは男が完全に部屋に入ったのを見届けてから、アパートの階段を音を立てないように慎重に上った。
 上がってみると、男の部屋に至るまでの通路には、ごみ袋がたくさん置いてあった。
 僕たちは苦労して部屋の前までたどり着いた(カニ歩きさえ僕たちはしたのだ)。
 僕の目には男が喜びのあまり、飛び跳ねて部屋に入ったように見えたのだけれど、なんのことはない、このごみ袋を避けていたのだ。
 おっさんはしゃがみこむと、ぴったりとドアに耳をつけてコロッケを貪りはじめた。どうやらそうやって中の音を聞こうとしているらしい。
 このアパートは木造のためなのだろうか、ドアに耳をつけていない僕の耳にも微かにテレビの音らしきものが聞こえてきた。
「いいか次の台詞は『みんな静かにしろ先生の話をよおく聞け』だおめえもドアに耳をつけろ」
 そう言っておっさんは僕の顔を無理やりつかんでドアにくっつけた。
 中から聞こえてきたテレビの台詞は、一字一句違わず、おっさんの言うとおりのものだった。
「これはちょうど2年前にやっていた『うちの子のあさって』というドラマだ」とおっさんは言った。
 そのドラマなら僕だって知っていた。部屋の中からは男の笑い声が聞こえる(僕は別にたいして面白いドラマじゃないと思っていたのだけれど)。
 男は本当にテレビ・ドラマを見ているのだ。すべてがこのおっさんの言うとおりに進んだので、僕は今さらながら驚いた。
「どうだ? これでも俺の言うことが信用できないのか?」とおっさんは言った。
「いや、そんなことはないですよ。もう信用していますよ」と僕は言った。「でも、もうそろそろここを離れたほうがいいんじゃないですか?」
「そうか……しかし残念だったな」
「何がですか?」
「コロッケを選ぶのに時間をかけすぎてヤツが見るドラマの主題歌を聴けずじまいだこれは尾行としては大失敗だ!」
 それから僕たちは階段を静かに下りて駅へ向かった。僕が買ったコロッケは僕の左手の中でグシャグシャにつぶれていた。
「どうだこれから家に来ないか? もっと面白いものおめえに見せてやるけどな」
 僕はおっさんの後についていくことにした。




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